下の世代に伝えたいこと

下の世代に伝えたいこと

2024/01/07

 劇作家、演出家の西尾佳織です。鳥公園という演劇カンパニーを主宰しています。東大には2004年に入学し、2008年に卒業したので、これを読まれている皆さんからするとだいぶ上の世代に当たるのかもしれません。

 今回「下の世代に伝えたいこと」というお題をいただいて、どういう立場から何を書こうか迷いました。というのは、私は中高と演劇部だったものの、大学では学部1年のときにRadishというゆるい演劇サークルに所属した他はポツポツとプロデュース公演に関わる程度で、駒場でいま演劇をやっている皆さんと必ずしも同じ文化・環境の中にいたわけではないからです。学生時代の私は、自分で作品をつくってみたい(作・演出がやりたい)と思いながら、でもそんなの無理だし……とムッツリもじもじ遠まきに演劇を眺めるばかりで、ようやく腹を括ってガッツリ演劇に身を投じ始めたのは大学卒業後でした。

 というわけで、今回は大学卒業後も演劇を続けて仕事にしている立場から、「学生時代〜卒業後に、今にして思えばあれをやっていてよかった/あれをやっておけばよかったと思うこと」を書いてみようと思います。

①シビウ国際演劇祭のボランティアスタッフ

 いきなり大学卒業してだいぶ経ってからのことですが、28歳のときにルーマニアのシビウ国際演劇祭のボランティアスタッフに応募して、1ヶ月ほどシビウで過ごしました。ボランティアと言っても、往復の交通費と日当が出て滞在場所も用意してもらえる(ホームステイを受け入れてくれるルーマニア家庭とマッチングしてもらえる)というありがたい条件で、私を含め総勢11名が日本から参加しました。
 私は日本のカンパニーアテンドの担当になり、野田地図の『The Bee』チームと東京演劇アンサンブルの『櫻の森の満開の下』チームに付かせてもらいました。果たして二団体のお役に立てたのかというと相当怪しいですが、現地の空気を肌で感じながら国際的なフェスティバルを内側から味わえたことは、得難い経験でした。
 海外まで行かなくとも、例えば日本国内の国際的な舞台芸術祭にボランティアスタッフとして参加するなどの方法でも、プロの仕事を間近で見ることは出来ます。どんなに小さなものでも、責任ある役割・立場をもらった状態で優れた現場を体験することは、自分の望む未来像を具体的に描く助けになると思います。

 また、ルーマニアの17歳の女の子(クリスティーナ)の家に滞在させてもらい、彼女と日々一緒に出かけたり色々な話をしたりした時間も印象深く残っています。
 ある晩クリスと、ヒトラーの話をしました。私はルーマニア入りの前に1週間ほどドイツに寄って、ベルリン郊外のザクセンハウゼン強制収容所跡地にも行ったので、ナチズムをいかに恐ろしいと思ったか…という話をしたのですが、クリスは「でも私はヒトラーってクールだなと思っちゃうんだよね」と言いました。「なんでかって言うと、ルーマニアはEUいち貧しくて、こんなに山も川も森も城も美しい観光資源がいっぱいあるのに貧しくて、それなのに私たちの税金は働かないジプシーのためにたくさん使われてる。あ、ジプシーって言っちゃいけないのは知ってる。でもロマって呼びたくない。なんでこの人たちを支えないといけないんだろう、消えてくれたらいいのにって、毎日思ってる」。
 強固な差別意識にクラクラして、でもそれが彼女の強い生活実感に根ざしていることも分かり、どうしよう言葉がない、私には世界史の授業で習った浅薄な知識しかない、でもそれが今この場でクリスにとって何の意味も持たないことも分かる……と思いながら、私が話し、クリスが話し、議論にならない議論の末に二人とも泣きました。
 まったく理解できないし理解したいとも思えない、なんなら消えて欲しい他者が隣にいる状態で、それでも相手を消去せずに生きることについて、このときから考え始めました。あれから10年経ちますが、今も私の創作における重要なテーマの一つとして、考え続けています。


②大学の授業、特に語学

 シビウのボランティアスタッフに応募しようと思えたのは、最低限の英語ができたからです。在学中には海外なんて視野に入らず、第二外国語もギリギリ単位が取れる程度のひどい成績で全くモノになりませんでしたが(ちなみに中国語選択でした)、今にして思えば語学はもっと真剣にやっておけばよかったと悔いが残ります。
 語学以外の授業も、私の創作の土台部分にずいぶん影響を与えています。よく覚えているのは、ドゥヴォス・パトリック先生の「表象文化論」と、今橋映子先生の(授業タイトルは忘れましたが)アンリ・カルティエ=ブレッソンという写真家の写真集を、フランス語のオリジナルバージョンと仏語から英訳されたバージョンで読み比べて、彼のキャッチコピーとして日本で知られている「決定的瞬間」という言葉が仏語→英語→日本語の重訳の過程で捏造されたものであったと突き止める授業です。
 作品のつくり方を知りたい、知ってからつくりたいと思って教養学部後期課程の表象文化論に進学しましたが、出来上がっている小説、絵画、ダンス、建築、写真、etc.を「これはどんな風にできているのかな?」と考えながらバラして分析していく修行は、ものをよく見ること、ひたすらに対象と付き合うことの訓練になりました。


③家庭教師のバイト

 演劇ではなかなか食えないので、私は28歳までバイトをしていました。ずっとしていたのは、家庭教師です。
 「人が人に教える」ことについて、教える側からできることはほとんどない(教わる側が教わったときにだけ「教える/教わる」があり得る)と思っていましたが、その上で私は教える仕事が好きでした。塾講師として集団授業もやってみましたが、それよりも一対一の家庭教師が好きでした。
 その日に私たちがやることは、相手(生徒)が握っている。何がどう分からないのか、どこにたどり着きたいのかは相手の中にあって、私はそれを聞きながら、あーでもないこーでもないと二人で解きほぐしていく。このコミュニケーションの経験も、私が演劇をつくるときの俳優やスタッフとの向き合い方に大きく影響した気がします。
 割がいいという点だけでなく、面白いと思える仕事を長らくの生活の糧にできたことは、私の心身の健康に大きく寄与したと思います(東大生で良かったと思った点でした)。
 演劇をやって生きていこうと思ったら、生計がどうにかなるまでにはけっこう時間が必要かもしれません。もしかしたら、ずっとそれで食えるようにはならない可能性もあって、その場合にも必ずしも「つくっている作品が良くない」ことを意味するわけではないのが演劇の難しいところです(産業構造の問題、ということです)。だからこそ、自分の心身の健康が保たれるライスワークに出会うことは重要です。


 そんなこんなで、あっという間に指定の字数の二倍になってしまいました。何かみなさんの役に立つところがあるといいのですが。
つくり続ける方も、そうではなしに観る側に回る方も、色々な形で演劇との良い関係が見つかりますように。