演劇人こそ社会に出ろ!

演劇人こそ社会に出ろ!

2023/12/10

 社会人になって早2年、駒場演劇を離れて早4年が経過した。
 私にとって駒場キャンパスは大学四年間を過ごした大切な場所だが、コロナの影響もあり随分と疎遠になってしまった。しかし、このようなご縁を頂き、駒場演劇祭の一翼を担えることを非常にうれしく思う。

 折角の機会だから後輩(というよりすべての演劇人、元演劇人に)に思いのたけを語ろうと思う。それは一重に「演劇人、もっと社会に出ようよ!」ということである。あるいは、社会に出たとして演劇をやめず続けてほしいということである。

 しかしながら、いざ進路選択の段になると演劇を捨てて社会人へ、捨てないまでも「演劇は学生まででいいかな」と考えている学生は多いように感じる。かくいう私も、学生時分に似たようなことで悩んだことがある。それもそのはずだ、演劇は時間的なコストが多くかかる。3か月近くかけて稽古を行い、公演直前には一週間駒場小空間に籠って本番を迎えた経験は今も忘れない。

 前述の理由で、学生時代と同じ演劇生活を続けることは、就職しない道を選ばない限り難しいのは事実である。だが、だからと言って演劇を辞める必要があるのだろうか?少なくとも四年間、猛烈に熱意を注いだ分野であるにも関わらず、そこでやめてしまっても悔いは残らないのだろうか?

劇団さくらまちの公演の様子

 私は思うに、演劇をある意味神格化してしまっていることに原因があるのではないかと考えている。もっと言うと「演劇はちゃんとやるもの」という考えを捨てる必要があるということだ。気軽に始め、気軽にやめ、想いを馳せる、そして気づいたらまたやっているくらいでも良いのではないだろうか。あくまで私たちの人生に彩りを与えるくらいの位置関係の方がもっと演劇を楽しめるかもしれない。芸術とは元来そのようなものに思える。

 もちろん、演劇や芝居の道を志し、それに打ち込む道を否定しているわけではない。私が選ぶことができなかった道を力強く踏みしめている仲間を見るたびに、私はいつも胸が熱くなる。それに、少し邪道かもしれないが、私も演劇の道を歩き続けている人間の一人である。もちろん演劇を演劇として極めている人に比べれば足元にも及ばないかもしれないが、私は「社会×演劇」、つまり応用演劇の分野に力を入れている。

 私も読者諸氏と同じく演劇に魅了され、時間のほとんどを演劇にささげたものの一人である。挙句の果てには、団体を2つ(広島・東京)作り代表に就任した上に、日本全国で公共施設や学校を中心に表現教育講師や演技講師として未だに活動している。(当方は文部科学官僚なので平日はそれなりに忙しくしてはいるが……)だからこそ、演劇や演劇人の長所は一般の誰よりも知っているという自負がある。だが、それが一般の人には広く知られていないことに悲しみを禁じ得ない。逆にそれを知らないことは社会にとっても大きな損失だ。

小学校での講演風景

表現集団Cakeのひときれのワークショップの様子

 勿論、演劇が浸透しにくいという日本社会の風土もあると思うが、演劇人が社会に積極的に関わってこなかったことも事実ではないだろうか?それが故に、一般の人にとっては、演劇をやっている人は殿上人か世捨て人かというイメージが固定化している。裏を返せば、ほとんどの人が、自分の人生とは関係ない事柄だと考えていると言っても良い。

 私の観点としては2つである。それは「演劇の手法を使って社会に少しでも彩りを与えること」と「演劇をより親しみやすい分野にすることでより大きな分野に成長させること」である。本当に演劇や日本社会の未来をより良いものにしていきたければ、演劇人が社会で活躍することが重要になってくる。

 私の活動は、大切だが敬遠されがちな分野(主権者教育、ジェンダー、防災など)を演劇の手法を通して、みんなが楽しみながら学べるコンテンツを届けることである。もっと広く言えば、社会の溝や分断に対して、芸術という橋を架けることで社会をより住みやすく明るい場所にする活動である。私はそういった未来で生きたいし、日常に彩りがあれば、今よりももっと生きるのが楽しくなるのではないだろうか。

 私の活動はどうしても公共や教育に専門性があり、その分野に偏りがちであるが、このコラムを読んだ読者諸氏の中から様々な分野で活躍する演劇人が生まれることを期待している。そして、是非とも私に会いに来てほしい。その時はご飯でも食べながら話をたくさん聞かせてほしい。また、一緒に何か楽しいことをやろう。

 そういった未来が来ること、読者諸氏の人生に少しでも影響を与えることができたと期待しながらここで筆を置くことにする。

荒木秀典(元劇団Radish団員)
劇団さくらまち 代表
表現集団Cakeのひときれ 主宰
即興演劇講師・表現教育講師